私は大学生の頃、喫茶店でバイトをしていた。
スタバのようなカフェのチェーン店ではなく、町の老舗の喫茶店だ。
お昼時はすごく混むけど、それ以外はのんびりとしている静かな喫茶店だった。

仕事はいつも60代のマスターと私の二人でやっていた。
私はホール担当で、お客さんに料理を運んだり、お会計でお金をもらったり、掃除やお皿洗いなんかもやっていた。

その喫茶店で私は、マスターに耳と首筋を舐められた。


私は喫茶店のバイトが好きだったし、誇りをもって仕事に取り組んでいた。
常連さんには顔を覚えてもらえたし、忙しい時にお客さんのオーダーや料理の運搬をさばききると、充実感と達成感でいっぱいになった。
それに、それまで飲めなかったコーヒーが、バイトを通じて飲めるようになった。

お客さんが少ない時間帯、店が暇なとき私は考え事をしたり、マスターと会話して過ごしていた。
私の就活の話しや、マスターの若いころの話をしていたように思うけれど、もう内容はほとんど思い出せない。

その会話で、中でもマスターのお気に入りの話題は恋バナだった。
マスターが昔女の子とどんなデートをしていたかを話したがり、私の彼氏とのあれこれを聞きたがった。
マスターの若いころの武勇伝を聞くのは、まあ誇らしい過去なんだろうなと思い話に付き合ってあげていた。

対してもともとノロケ話をするのが好きではなかった私は、自分の彼氏とのことはあまり話したくなかった。
それでも最初の頃は知り合った経緯とか、どういうところが好きなのかとかという普通の話だったので、自分も普通に返事をしていた。

でも時間が経つにつれ、だんだん話の内容が下のほうへと突き進んでいった。
マスターの若いころに付き合っていた女の子とのプレイ内容や、その喫茶店の元バイトたちの性癖を聞かされるのは特に何とも思わなかった。
そういう話が好きなおじいちゃんなんだなとしか思わなかった。

特にマスターはバイトの女の子たちに変な性癖があるのを面白がっていた。
マジのドMの子の話とか、複数人で事に及ぶのが好きな子の話とか、それ以上にそういう性癖を持っていなかった自分からしたらドン引きな性癖を持っている子たちの話をよくしていた。

例に漏れず私も性癖を聞かれたけれど、そんなこと馬鹿正直に言いたくはなかったので、適当にはぐらかしていた。
彼氏と実際どんな感じなのかも聞きたがったけれど、それも「別に普通ですよ」とできるだけ流すようにしていた。

それを、何を勘違いしたのかマスターは「sayokoは不感症なんだ」と思ったらしい。
しょっちゅう、そんなんで彼氏は満足しているのかとか聞いてきたし、二人とも充実した夜を過ごしていないんじゃないかと心配してきた。
正直言って余計なお世話と思っていたけれど、自分の夜の話を赤裸々にべらべら話したくなくてあえて淡泊な感じで話していたので、心の中では「まあ勘違いしててもいいか、真実がどうだかなんてマスターに確かめる術はないんだし、知らせる必要もないし」と思っていた。
だからたびたび不感症を指摘されても「そうなんですかねぇ~よくわかりません」と苦笑交じりに言っていた。

それくらいであれば、めんどくさいおじいちゃんの相手をしているくらいで済んだ。
最初に言った通り、仕事の面ではとても助けられていたし、恋愛や下ネタ以外のとりとめのない話を店が暇なときにするのは割と好きだったから、まあちょっと嫌な部分があったとしても許容範囲かな程度に思っていた。

それが間違いだった。
嫌なことは嫌だと言わなければいけなかった。

ある日の午後、一通り仕事が済んでコーヒーを飲み、いつものように談笑していた。
忙しい昼が終わり店にはお客さんが一人もいなかった。
例によって話題は私の不感症について。
それだと今後苦労するんじゃないかと言ってくるマスターに対し、いつものように受け流す私。
真面目に取り合ってなんていなかった。

だけどいつもと違い、マスターはこんなことを言ってきた。
「本当に不感症じゃないのか、俺が確かめてあげるよ」
ん?とは思ったけど相手は60代のおじいちゃんである。
何を確かめるというのか。
私は「またまた~、大丈夫って言ってるじゃないですか~」ってな感じに返事をしたと思う。

冗談だと思った。
本気でマスターが何かをしてくるなんて1ミリも思っていなかった。

店の入り口から死角になる場所で、壁を背に肩をつかまれて、首を舐められ耳を舐められた。
そのまま太ももを撫でられた。
思わず強い力でマスターを押しのけてしまった。

タイミングよくお客さんが入店してきたので、それっきりで終わったけれど、もうショックで悲しくてどうしようもなかった。
あの時よく笑顔で接客できたなと思う。


あれは大学四年の時で、もうすぐ卒業で店をやめることが決まっていた時の出来事だった。
その後の数回のシフトでは、お客さんの前以外では無表情で仕事をした。
さすがに何かを察したのか、マスターはそれっきり恋愛や下ネタの話はしてこなくなった。

その後はっきりとマスターに嫌だとは言わなかったし、録音など証拠もないのに親告罪であるセクハラで被害届を出したり訴えたりなどはめんどくさいので何もしなかった。
残ったのは怒りの感情だけ。
大好きだった、楽しかったバイトの思い出は嫌な記憶で上書きされた。

あの出来事以来、こちらの同意なく性的な接触をしてくる人が本気で無理になった。
それがどんなにイケメンでも。
幸いなことに、以降そんな人間には出くわしていないけど、イケメン芸能人の強姦スキャンダルを見たりしただけで嫌悪感でいっぱいになった。

男がイケメンかどうかは関係ない。
女がブスだろうがデブだろうが老けていようが関係ない。

合意のない性的接触は全部セクハラ・痴漢・強姦で、された女は本当に惨めな気持ちになる。
求められて嬉しいなんて、これっぽっちも思わないのだ。
こちらの意思を尊重されず一方的に消費され、辛いのだ。

今回、昨今の#MeToo運動に触発されて書いてみた。

私はマスターのことを一生許さない。